『仏性論』に於ける仏性の定義

真諦訳の『仏性論』は言うでもなく漢字圏仏教の経論に於けるかなり有名な書物であるとは言え、あらゆる書籍と同様に批判的に読む必要がある。しかも客観的な視点から批判する義務もある。『仏性論』の基本的な概念は一切衆生には悉く仏性があるということである。こちらで考えなければならぬ問題がある。「仏性」とは如何なるものであろうか。この「仏性」の定義を明らかにするのが本研究の目標である。

まず、「縁起分」に於ける「仏性」の定義を考えたい。「仏性」とは、人法二空によって顕される真如であると定義される。以下のようである。

《佛性論》卷1:「佛性者。即是人法二空所顯真如。」


この文脈から判断して、「一切衆生には悉く仏性がある」という発言を「あらゆる衆生には悉く真如がある」と言い換えることができるのであろう。つまり、真如と仏性は取り換え可能な用語である。人法二空を会得すればするほどその真如が顕れるという。

「破小乗執品」に無仏性説の提唱者を批判して否定するために同様な論理が使用されるが、この場合、仏性は真如ではなく空性であるという。以下のようである。

《佛性論》卷1〈1 破小乘執品〉:「二者不及過失。若汝謂有眾生無佛性者。既無空性。則無無明。若無無明。則無業報。既無業報。眾生豈有。故成不及。而汝謂有眾生無佛性者。是義不然。何以故。汝既不信有無根眾生。那忽信有無性眾生。」


「若汝謂有眾生無仏性者、既無空性」すなわち無仏性の衆生があるとすれば、その衆生には空性がない。こちらで「仏性」と「空性」は同一と主張される。上記の論理を考え合わせると、「仏性」とは「真如」と「空性」と同じものであると言える。このポイントには問題がない。大乗仏教のコンテクストならば、真如が空性であると言っても良い。『仏性論』のこちらに「空性」が無ければ、無明と業報などの十二縁起に於ける因子は不可能になると主張される。したがって、これらの因子が無ければ、衆生が存在する原因もないので、仏性すなわち空性が無いという見解は誤謬である。

空と縁起は同一であるという見解は新たな思想ではない。周知のように龍樹は因果律たる縁起は空であると主張した。以下のようである。

《中論》卷4〈24 觀四諦品〉:「 眾因緣生法、我說即是無3、亦為是假名、亦是中道義」
yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṁ tāṁ pracakṣmahe|
sā prajñaptirupādāya pratipatsaiva madhyamā||18||


しかし、『仏性論』の場合、空と真如は縁起のみならず仏性でもある。換言すれば、『仏性論』の作家は龍樹の思想を直接的に借用して仏性の概念に結び付く。単に言えば、仏性は真如と縁起と空である。前者を否定すれば、後者も拒否して邪見になる。このような論理によって成仏できぬ衆生があるすなわち無仏性説の提唱者の論拠を否定する。その点で、「仏性」には論争的な意味があると言える。

ところで、仏性が真如であると主張するだけで反論者の見解を否定できるかどうかは疑問である。反論者の視点から見れば、真如は必ずしも仏性というわけではない。有仏性説の論者が定義した「仏性」の意味は単なる論者の見解に過ぎない。

さて、次の巻の「三因品」に進むと、「仏性」の意味が変わる。「仏性体」を法身に成るための原因過程の三種類に分ける。

《佛性論》卷2〈1 三因品〉:「復次佛性體有三種。三性所攝義應知。三種者。所謂三因三種佛性。三因者。一應得因。二加行因。三圓滿因。」


「仏性体」を仏性の真髄と呼んでも良いであろう。こちらで仏性の真髄を三種類の原因に分類する。それらは「応得因」と「加行因」と「円満因」である。既述したように仏性が人法二空によって顕される真如ならば、この真如の体すなわち真如の真髄を三種類の原因に分けるのは拡大解釈である。中観の視点から見て、実際には真如の真髄をこのように解釈するかどうかは疑問であるかもしれない。何故ならば、真如の真髄に達すると同時に言語道断のポイントに到るのではないであろうか。いずれにしてもその疑問を暫く横に置いて本書の仏性の定義に集中しよう。

まず 「応得因」を考えよう。

《佛性論》卷2〈1 三因品〉:「應得因者。二空所現真如。由此空故。應得菩提心。及加行等。乃至道後法身。故稱應得。」


これはもともとの仏性の定義を拡張する。原文の「仏性者即是人法二空所顕真如」を考え合わせると、仏性体は仏性の定義の意味を超越しているのである。真如が何たるかを解明した上で更に結果も説いて仏性に意味を加える。その点で、仏性の一部は「二空所現真如」のみならず「乃至道後法身」でもあると言える。

次に「加行因」を考えよう。

《佛性論》卷2〈1 三因品〉:「加行因者。謂菩提心。由此心故。能得三十七品。十地十波羅蜜。助道之法。乃至道後法身。是名加行因。」


「加行因」とは菩提心を意味する。上記の応得因も空による菩提心を説く。この菩提心に駆られて多数の行を究めて法身に至る。これも「縁起分」に於ける仏性の定義の意味を超えるのである。また、仏性体すなわち仏性の真髄は原因のみならず結果でもある。

次に円満因を考えよう。

《佛性論》卷2〈1 三因品〉:「圓滿因者。即是加行。由加行故。得因圓滿。及果圓滿。因圓滿者。謂福慧行。果圓滿者。謂智斷恩德。」


円満因とは、「加行」すなわち仏法の実践と応用である。この加行により因果の円満を得る。因の円満は福(puṇya)と智慧(prajñā)の行である。果の円満は智徳と断徳と恩徳(tri-guṇa)。また、こちらで原因と結果が特に強調されている。

仏性体は縁起に基づいた因果過程を全体的に包含するものである。一切衆生に悉く仏性があることを考え合わせると、その因果過程の開始はどの生き物にも可能性であると言える。なぜこの過程が可能性であるかというと、仏性は真如もしくは空性すなわち因果律自体だからである。成仏する原因があるならば、成仏する結果もある。仏性体は二空によって顕される仏性・真如による法身への過程の全体だと言わねばならぬ。その点で、一切衆生には悉く仏性があるという概念は、あらゆる物事には実体が無く空であるため、あらゆる生き物は法身への過程の道を歩んで成仏できるという意味である。このような論理は無仏性説を否定するのである。既述したように「仏性」すなわち因果律による成仏の過程の可能性のない衆生が存在すると主張すれば、同時に因果律も拒否して邪見になる。その点で、有仏性の論者は『仏性論』の「仏性」の定義に論争的な意味を加えた。

Tang Dynasty Buddhist Art

The following is a painting from the Tang Dynasty:



Scenes from the Life of the Buddha: the Four Encounters; Old Age and Sickness
佛傳圖斷片:四門出游:老年和疾病
Tang dynasty, 8th or early 9th century A.D.
Whitfield_1982: Vol. 1 Plate 35


If you did not know this was an image of Prince Gautama, you might think it was painting of a Chinese prince. The top half shows the prince leaving the east gate of the city and encountering an elderly person whom he asks about. The lower half shows him exiting the south gate of the city and encountering an ill person whom again he asks about.

This painting is particularly interesting to me because it shows how someone in the Tang Dynasty envisioned the content of the texts that he or she would have been reading. It goes without saying that what they imagined was something a lot closer to home. The prince looks like a Tang prince and both the scenery and characters likewise reflect the time period when the work was painted.

Again in this other painting we see a clearly Chinese depiction of the Indian prince.



Scenes from the Life of the Buddha: the Farewell; the Cutting of the Locks; the Life of Austerities
佛傳圖:離別;剃髮;苦行
Tang dynasty, 8th- early 9th century A.D.
Whitfield_1982: Vol. 1 Plate 38


It is interesting in the middle scene that we can see one Indian looking character distinguished from the others who are dressed in Chinese garb. The artist surely was exposed to statues of Buddhas and Bodhisattvas, but interestingly they don't portray all the characters in such a style.