『祖堂集』の汾州和尚の伝記

『祖堂集』の汾州和尚の伝記

『祖堂集』に記される記述が当時の僧侶達の生涯をそのまま反映しているかどう
かは不明だが、そこに描かれた禅僧達の様々なイメージは当時の状況を反映している
のではないかと考えられる。『祖堂集』には、多くの古代の宗教歴史書と同様に、あ
たかもフィクションのような奇跡と非現実的な話がたくさんあるため、完全に客観的
な歴史的史実の記録ではないことが知られいる。とはいえ、唐代に実際に生きた僧侶
と当時の出来事を記したものであり、ある程度は禅僧達の思想と生涯を知ることがで
きると言えよう。したがって、『祖堂集』は当時の禅宗の傑僧の生涯だけではなく唐
代の仏教のおかれた環境も記す書であり、分析研究する価値があると言える。
このエッセーでは汾州(760-821)の伝記とその背景に焦点をあてる。しかし、

『祖堂集』の汾州の伝記を考察する前に当時の状況を考えてみたい。まず、汾州の生
きた時代と彼の関係を紹介する必要がある。汾州は伝記が以下に示すように、821年
の穆宗の即位の頃にこの世を去ったが、長慶三(823年)になるまで火葬されなかっ
た。以下のようである。

「至穆宗即位、重降旨、使曰:「此度聖恩不並常時。」師笑
云:「貧道有何徳、累煩聖主?行則行矣、道途恐殊。」乃作
行次、剃髪沐浴、至中夜、告徒弟等云:「汝等見聞覺知之性
与虚空同壽 、猶如金剛、不可破壞。一切諸法如影如響、無
有實者。是故經云:『唯此一事實、餘二則非真。』」言已跏
趺、奄然而化。長慶1三年癸丑歳十二月二十一日茶毗、塔于城
西。」2

821年に亡くなった彼がなぜ、823年に火葬されたかに関しては、この二年間で
の塔の建設が理由であったのであろう。彼のために塔が築かれたことは高僧の名誉の
反映であった。そして塔の建設と共に穆宗の即位式への招待も汾州と皇族との絆の証
拠である。

ところで、ここに記述された「汝等見聞覺知之性与虚空同壽 、猶如金剛、不可
破壞。一切諸法如影如響、無有實者」とは、以下の文章が示すように、 『正法眼
藏』にもあるが、そこでは末期の言葉ではなく、ただ弟子慧愔に話したものであった。
『正法眼蔵』には以下のようにある。

「無業國師謂弟子慧愔等曰。汝等見聞覺知之性。與太虗同壽。
不生不滅。一切境界本自空寂。無一法可得。迷者不了即為境
惑。一為境惑流轉無窮。汝等當知心性本自有之。非因造作。
猶如金剛不可破壞。一切諸法如影如響。無有實者。」3

これが末期の言葉なのか、それともただの平時の説法中の名言であったのかど
うかは不明である。

さて、上記の文章が示すように汾州は病気のため穆宗の即位式への招待を拒否
したが、以下の『旧唐書』に記された穆宗の下で僧侶の死刑の事件を考えると、汾州
の勇敢な性格が見られるのではないかと考えられる。

「僧大通醫方不精,藥術皆妄。既延禍釁,俱是姦邪。邦國固
有常刑,人神所宜共棄,付京兆府決杖處死。」4

つまり医術の能力のない大通という僧侶は皇帝を怒らせたため、杖で打ち殺さ
れた。この死刑は穆宗が即位した一年間以内に実行されたとされる。ここには、当時
の皇帝の怒りと無慈悲さが例証されている。当時、僧侶が皇帝の招待を拒否すること、
いわんや命令を嘲笑することは言うでもなく非常に危険であった。『祖堂集』による
と、汾州が招待を拒否した後に示寂したと言われるが、大通と同じような運命を迎え
る危険性があっても気にしなかったのは、恐れを知らない典型的な禅師の画像を描く
のである。他の経典にも『祖堂集』と同様に汾州が穆宗のみならず先帝の憲宗皇帝の
命令を拒否する逸話が含まれている。

「無業。住汾州。唐憲宗屢遣使徵召。皆辭疾不赴。暨穆宗即
位。思一瞻禮。長慶二年。命兩街僧錄靈阜。齎詔迎業赴闕。
阜至。宣詔畢。作禮而言曰。皇上此度恩旨不同。願師起赴。
無以他詞固却也。」5

仏典には上記の話の複数のバージョンが入っているので、実際に皇帝の招待を
拒否した可能性もおおいにあろう。また聖人伝には、編纂の過程でフィクションが入
りがちであるから、内容を分析する際には、必ず懐疑的な態度をとらなければならな
い。本章の場合、塔の建設を考え合わせると、逸話の複数のバージョンが現存してい
るので、実際の出来事であったと言ってよいであろう。残念ながら彼は国師という立
場の高僧であったのにも関わらず、『旧唐書』や『新唐書』といった政府の歴史書に
は、「汾州」という州名が出ても、汾州の人名がない。6もし今後、当代の政府が記し
た歴史書に汾州和尚の名が発見されれば、上記の出来事の存在を明確に証明できるで
あろう。今後の発見を期したい。

汾州の思想を調べるためには、しばらく『祖堂集』以外の経典に頼る必要があ
るが、汾州の背景を説明するために、まず『祖堂集』に記された彼の教育とその影響
を考察したい。

『祖堂集』によると、汾州の誕生譚として、「誕生之夕、異光滿室」7と記され
る。そのような奇跡的な誕生は聖人伝によく見られる特徴である。教育に関しては、
「九歲啟父母、依商州開元寺志本禪師。禪師授以金剛、法華、
維摩、涅槃等經、一覧無遺。」8

すなわち汾州は九歳の頃に父母の許可を受け、開元寺の志本禅師の弟子になり、
いくつかのお経を一読しても何も忘れなかった天才であったと言われる。彼の得度の
話は以下の通りである。

「年十二剃落。具足戒於襄州幽律師、稟四分律疏、一夏肄習、
便能敷演;長講花嚴、涅槃等經。」9

12歳の頃に襄州10の幽律師の下で落髪し、四分律疏を受けた上で、夏に四分律
の勉強をし、よく説明できるようになった。また、このような才能が真実であったか
どうかはさて置き、少なくとも汾州が戒律と大乗仏教の思想に精通している博識な僧
侶であったことが想定される。

さて、汾州はどのような思想家であったのであろうか。彼の思想的立場を明ら
かにするために以下の『宗門拈古彙集』の問答を考えたい。

「無業因僧問如何是佛。業曰莫妄想。又僧問如何是佛。業曰
即心是佛。」11

「即心是佛」とは中国禅宗の頓教という基礎的な教義に他ならない。『祖堂
集』の汾州と馬祖との問答には、頓教の思想が見られる。この伝記によれば、汾州に
とって、馬祖との対話の結果は頓悟の体験であったと言われる。

「師礼而問曰:『三乘至教、粗亦研窮、常聞禪門即心是佛、
實未能了。伏願指示。』馬大師曰:『即汝所不了心即是、更
無別物。不了時即是迷、了時即是悟;迷即是衆生、悟即是佛
道。不離眾生別更有佛也。亦如手作拳、拳作手也。』師言下
豁然大悟、涕淚悲泣12、白馬大師言:『本将謂佛道長遠、懃
苦曠劫、方始得成。今日始知法身實相本自具足、一切万法從
心化生、但有名字、無有實者。』」13


汾州が一生懸命に学び実践したにも関わらず、いまだ禅門の「即心是佛」を理
解できなかったため、師の馬祖に教えを請うた。汾州は豁然と大悟し、「一切万法從
心化生、但有名字、無有實者」と言い放った。多言を要しないが、汾州は頓教の実践
者であったと断言できる。そして上記の文章の「一切万法從心化生」から判断すると、
唯心の提唱者であったのであろう。頓教と唯心などは中国禅宗の標準的な思想であっ
た。なお、管見によれば、現存の経典に関する限り、汾州は師の馬祖の思考様式を反
映しており、オリジナルの印象を与えず、同世代の禅僧とあまり異ならない。とはい
え、汾州が後代の禅僧達に、全く影響を与えなかったというわけではないと考えられ
る。以下の公案には、汾州(無業)の行状が記される。

「無業國師云。若一毫頭凡聖情念未盡。不免入驢胎馬腹裏去。
白雲端和尚云。設使一毫頭凡聖情念淨盡。亦未免入驢胎馬腹
裏去。」14

CBETAでこの公案を検索すれば、この公案に対して多数の後人の解
釈が見出せる。汾州の行状はある程度、後世に影響を与えていると言え
る。そして「国師」の接尾辞から判断すると、当時に仏教のリーダーで
あったことが分かる。

『祖堂集』における汾州の聖人伝にはフィクションの要素が入って
いるが、学術的な検討を経れば、フィクションの中から事実を見出すこ
とができる。伝記から取り出された事実を伝えるであろう部分を抜き出
せば、汾州の生涯は、ある程度まで明らかになる。青年だった頃に才能
のある賢い僧侶であったと同時に、成長した後には皇族との関係も持っ
た高僧であることは確実であろう。また馬祖との対話の内容を検討して
みると、汾州が中国禅宗でのスタンダードであった頓教と唯心の態度を
とったことがよく分かる。上のように、汾州の研究が重要なのは、国師
という立場を得た彼が当時の唐代禅宗界の代表者であったというだけで
はなく、彼の師匠もまた、汾州よりもさらに後代に影響を与えた馬祖で
あったからである。今後の研究の進展が期待されよう。

1『諸橋大漢和辞典』〔第11巻670頁〕:「【長慶】穆宗の年号(821-824)。」
2『祖堂集』巻十五 六九一頁
3『正法眼藏』巻三 (卍続蔵67.615頁)
4『舊唐書』〔卷十六〕
5『佛祖綱目』卷32「汾州無業禪師入寂」(卍続蔵85.536頁)
6『諸橋大漢和辞典』〔第6巻957頁〕:「【汾州】州名。山西省隰縣の東北。」
7『祖堂集』巻十五 六九一頁
8 同上
9 同上
10『諸橋大漢和辞典』〔第10巻263頁〕:「【襄州】湖北省襄陽縣。」
11『宗門拈古彙集』巻12「汾州無業大達禪師 」(卍続蔵66.69頁)
12「涕淚悲泣」とは『金剛般若波羅蜜経』からの常套語である。『金剛般若波羅蜜經』卷1「爾時,須菩提聞說是經,深解義趣,涕淚悲泣」(大正蔵08・750頁)
13『祖堂集』巻十五 六九一頁
14『禪宗頌古聯珠通集』卷第十三 〔卍続蔵47.853頁〕